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八尾 地名の起り

八尾という地名の起りについては、従来より、さまざまな説が唱えられています。

一つは、古代、八尾の地には、大豪族物部氏の配下で弓矢の生産に従事していた矢作部や弓削部があったことから、「矢負い」という語(矢は背に負うものであるため)が生まれ、転訛して「やを」になり「八尾」という漢字があてられるようになったというものです。

二つめは、「八つ尾の鶯」伝説で、三条西公条という貴族が残した『吉野詣記』に記されています。

天文22年(1553年)の春、公条卿は吉野詣での途次、八尾木の金剛蓮華寺に立ち寄りました。その折り、里人から「世の常の鶯は尾が12枚であるが、当地のは8枚がさねのため、美しい声で鳴くと言われている」と聞き、さっそく「契りおきてここにぞきかん鶯の八尾のつばさ八千とせの声」という歌を詠んだということです。

よく似た話が『和漢三才図絵』などにもあり、もとは八尾木の伝説であったものが、八尾の地名伝説に変っていったと『八尾市史』は述べています。

今一つは、弓削道鏡ともかかわりの深い説で、称徳天皇の西の京(由義宮)造営計画の一貫として、宝亀元年(770年)から行なわれた古大和川(長瀬川)の大築堤工事に関連するものです。

大小さまざまな柵(=木)が打ち込まれた堤の壮観なさまを、当時の人々は、八百(やほ=たくさん)の柵(木)と呼びました。西の京は造営されずに終ったものの、大築堤工事のおかげで、この辺り一帯は、春になれば鶯のさえずる豊かな農耕地帯となりました。

かくして八百の木は、八つ尾の鶯に転訛し、八尾の地名伝説として語り継がれていったというものです。

この他にも、低湿地を意味する古語である「矢野」・「谷野」が「やのー」・「やのお」となり「やお」になったという説、信貴生駒連峰の八つの尾嶺に起因するという説などがあります。

地名というものが、単なる符号ではなく、遠い祖先の営みや意識を投影する貴重な文化遺産であることを思う時、どの説も私たちに働きかけるものを持っているということができるでしょう。

ちなみに、八尾という地名が初めて文献に登場するのは、長久2年(1041年)の矢作神社文書に見える「河内国若江郡八尾八幡掃部別宮」であるということです。

資料(書名のアイウエオ順)

資料について
書名 著者(編者) 出版者(出版社) 出版年
市民のための八尾の歴史 八尾市立図書館 1986
八尾市史(前近代)本文編 同上 同上 1988
八尾地名考【八尾鶯】伝説はとるに足りないか
(河内どんこう13)
森田康夫 やお文化協会 1980
八尾という地名について(大阪春秋44) 棚橋利光 大阪春秋社 1985
「八尾」の地名の起り(河内どんこう12) 山下美典 やお文化協会 1980
八尾の伝承とうた 森田康夫 八尾市立図書館 1989
和漢三才図絵13 寺島良安 平凡社 1989

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